死別は突然に

3月11日は東日本大震災が起こった日ですね。

私は当時32歳。

名古屋の自宅にいました。

妊娠を機にフルタイムの仕事を辞めて数週間のときでした。

妊娠3カ月で、ちょっとしたつわりと、気だるさもあって、

犬と猫と一緒に、こたつで横になっていました。


ぐるぐると地面が回転するような揺れで

揺れの大きさにびっくりしてすぐにテレビを付けました。

テレビに次々と映し出される非常事態に

ひとりで「ダメだよ、危ない!逃げて!」と声を挙げていました。


私は22歳の時、

留学先のニュージーランドで

恋人と付き合って1年の記念日で

首都の街へドライブの途中

高速道路で

暴走車に追突されました。


暴走車は路肩を猛スピードで走るのに失敗して

別の車に当たった後

すごい勢いで

私たちの左前方からぶつかってきました。


追突されたはずみで

私たちが乗る車は

くるくると空中を回転して

1メートル下を走る対向車線に

まっさかさまに落ちてグシャッとなりました。


高速道路の上下線をふさぐ大事故でした。

高速道路だから、対向車線の車がぶつかってきてもおかしくなかったのに

二次災害が起こることはありませんでした。


私は奇跡的に助かったけど

隣で運転していた恋人は、頭と肺を強打して

ほぼ即死状態だったと言います。

その日は彼の22歳の誕生日。

その日はパラパラと雨が降ったり風が強くて曇っていたはずだったけど

事故の直後、道路に寝かされて見た空は水色でした。


車が逆さまに地面にぶつかって止まりました。

私は目を開けて事故を認識したけど

すぐに事故の衝撃のせいかなんとなく眠くなって目を閉じました。

でも、そのとき「あ、眠っちゃだめ」と思って目を開けました。


今でも、あのとき眠っていたら

きっと死んでいたんだろうと思います。


ふと我に返って

「健ちゃん、健ちゃん」と恋人の名を呼びました。

でも返事はありませんでした。


私は足が挟まっていて

自力で抜け出すことができなくて

集まってきた人たちが私を車から出してくれました。


ちょっと離れた場所に寝かせられて

彼は大丈夫か、車が燃えたりしないか気が気じゃなくて

でも

彼が大好きだった車が見るも無残な形になっているのを見て

彼が悲しむだろうから車の惨状は見せたくないって思いました。


私はしばらくして救急車で運ばれました。

傷の手術が終わるまで

誰も彼のことを教えてくれなくて

ナースに「恋人が大丈夫か知りたい」と強くお願いしました。

そのナースは事故のこと知らなかったみたいで

私の気持ちに応えてくれるように調べに行ってくれたけど

戻ってきたときは最初の雰囲気とは違って

ただ一言、自分を納得させる感じで

"He should be all right(たぶん大丈夫)"って言うだけで

すぐに立ち去ってしまいました。


しばらくして警官が入ってきて

"I have a very sad news.(悲しいニュースだけど)

Kenji died. (健二は亡くなった)"と言われました。


治療を受けている間もずっとずっと無事を祈っていたから

祈りが崩れ去った瞬間でした。


彼に会いたいとお願いして

遺体安置所に連れて行ってもらいました。

顔に白い包帯をして横たわっている彼を見た瞬間

もう肉体に魂がないのがわかりました。


今年で18年になります。

それでも、こうやって事故の時のことを語る時は

体が強張って内臓がブルブルブルブルと小刻みに震えます。

ちょっと涙目になります。


東日本大震災から7年。

生き残った人たち

残された人たち

悲しみを胸に

それでも生きていかなくてはいけない辛さ。


今も心は癒されていない人もいるかもしれない。

我慢しなくていいんです。

ただ泣けるときに、泣いてください。


この写真は2004年4月に撮影したもの。

古い自分のブログを見て懐かしくなりました。

もうずっとサイトを見直すことはなくて。


実は、結婚して初めて妊娠が分かった29歳のとき

私は悲しくて悲しくてトイレで泣いてしまったのです。

そしたら7週で流産してしまって。

私があのとき泣いてしまったからだと思いました。

流産は痛くて痛くて、悲しかったです。


それからは自分の中で

彼のことも事故のことも一切の感情を引き出しにしまうようにしていました。


こんな写真撮ってたんだなって懐かしくなりました。